Hazuki Natuno

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【Novel】my book

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 僕が生まれたときの記憶を、いまも憶えている。彼女は僕に微笑み「はじめまして」と言った。そして、僕は生まれた。

 僕の生きる場所は、小さな街の古書店だ。
 この店に並ぶのは古書ばかりだから、意識を持った本が多い。
「あなたが生まれたとき、冷や冷やしたわ」
『赤ずきん』はそう言った。
「なぜ?」
「危なっかしげだから。あなた、自分を人間だと思ってるでしょ?」
 その通りだ。僕は自分が本である認識が持てない。
「君はまだ、若いからね」
 『変身』が言う。
「僕はそんなに若いですか」
「若いね。僕ら本は二つの意味で命がある。本という形。形に宿る意識。形と意識がどちらも古い本も、形が古くて意識が若い本もいる。君は形も意識も若い」
「珍しいですか?」
「珍しいね。僕ら本は付喪神のようなものだ。本は読む人の思念が移り、意識が生まれる。君ほど真新しい本に意識が宿るのは奇跡だよ」
「若いっていうのはいいことよ」
 笑いながら『枕草子』が言った。
「恋も人生も、楽しむなら若いほうがいいわ」
「年増がいうと説得力があるな」と『枕草子』より年上な『イーリアス』が混ぜっ返す。怒り出す彼女を『レ・ミゼラブル』が宥める。『十二夜』も会話に加わり大騒ぎになって、僕はそっと会話から抜け出した。

 皆には言っていないが、僕はどうして僕が生まれたのか知っている。彼女がいたからだ。彼女が僕に話しかけ、そのとき僕は生まれた。
 彼女はこの古書店の店員だ。歳は二十代半ばだろうか、黒く長い美しい髪をしていて、僕ら古書を販売する仕事をしている。
 彼女には変わった癖があって、本を人間のように扱う。他の店員にとって僕らは物だ。だけど彼女は背表紙を撫でたり、時に本に話しかけたりしている。注文の入った本には「売れて良かったね」と話しかけたり、ちょっと背表紙の傷んだ本には「痛む?」と撫でたりしている。まるで、彼女にとって本は人間であるかのようだ。
 そうして、僕が入荷した時も話しかけてくれた。
「はじめまして」
 彼女が僕の表紙を撫でると、まるで雷光のような歓びが走った。僕の意識は海に上がろうとする泡のように浮上し、彼女を見た。僕を撫でる彼女の視線は柔らかく、温かくて、僕は泣きそうになった。あまりにも照れくさくて、僕は生まれたときの記憶を誰にも話していない。
 僕は人間になりたい。そして、彼女と会話してみたい。僕が彼女の声を聴くように、僕の言葉を彼女に聴いてほしい。それが僕のただ一つの願いだった。

「どうしたら、人間と会話できるでしょうか」
 皆が振り向いた。
「できなくはないわよ」
 『枕草子』は言った。
「私たちは本でしょ。だから、声も口も持たない。だから言葉を使うのよ」
「言葉?」
「そうよ、私たち本に書いてある言葉。これが私たちと人間のコミュニケーションツール。例えば恋愛小説の本が恋を伝えたりするでしょ。本は自分に書かれている言葉を通じて、人と会話してるの」
 僕は僕に書かれている言葉で、彼女になにか伝えられるだろうか。
「僕に書かれている言葉は、どんな言葉ですか」
 ぴたり、と皆が黙る。そしてじっと僕を見つめる。そう、僕は僕がどんな本なのか知らない。本は他の本が教えてくれない限り、自分がなんという本なのか知ることができない。そして皆は僕という本について教えてくれない。僕は僕について、一番無知だった。
 気まずい沈黙の中に、足音が響く。今日の開店が間近なのだろう。店員が僕らの棚に来て、本を並べ始めた。
 会話を止めた他の本たちのことは諦めて、開店準備を大人しく受け入れる。埃を払うように立ち働く店員に身を委ねる。その手の体温を感じて、どきっとした。彼女だ。体温だけで、わかる。

 僕を撫でるように触れ、彼女は僕に話しかけた。
「おはよう」
 おはよう。心の中で挨拶を返す。彼女の笑顔を見るだけで、僕は蕩然としてしまう。
 彼女が手の中の僕を見た。そしてぱらり、と僕のページを捲る。そうだ、彼女の瞳を見つめれば彼女に映る僕の言葉が読めるかもしれない。
 白紙、白紙、白紙。どういうことだ。僕には言葉が書いてない。いや、違う。白紙の各ページに、三百六十五日の日付だけが書いてある。僕がなにも言葉を持たないとしたら、僕は彼女になにも言えない。
 彼女が僕を捲り終わった。彼女が僕の表紙を見つめる。僕は、彼女の瞳の中に映る僕を見つめて、書名を読もうとした。
 『マイブック』。シンプルな表紙に、それだけ書かれていた。
 そういえば誰かから聞いたことがある。「本の形をした日記帳があるのよ。『マイブック』というの」と。
 僕は初めて知る僕について呆然する。だが彼女はそんな僕に気づかず、僕をレジに運んだ。彼女は軽やかにレジを打ち終えて微笑み、そして僕は彼女のバッグに仕舞われた。

 僕は『マイブック』。自分の言葉を持たない、白紙の本。
 だけど、これから僕には彼女の言葉が綴られる。
 それはどんな本に書かれた物語より、奇跡のように思えた。