Hazuki Natuno

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美の名前

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いつだったか、なぜ私の友人には精神を病んでいる人が多いのかふと考えたことがある。
多い。実に多い。
例えば入院中友達になった、いつの間にか友人がなっていた、知り合って病気について打ち明けたら打ち明けられたと様々な形で友の病を知る。
知るということは偉大で、さらに知りたくなる。
それで知りうる限りこつこつと調べたり考える。
すると楽しくなる。
要するに私がどうやら精神の病そのものに強い興味を抱く人間であることが原因らしい。
これは類は友を、と言った単純な類の話ではないようだ。

精神の病というのはいまいち違うかもしれない。
狂気。闇。理解できないもの。したくないもの。
そういうものに猛烈に興味を持つ。
わからないものは怖い。理解しがたい。拒絶反応すら起こる。
その過程を猛烈に吐き気を堪えながら観察する。
時には一人で抱えきれなくなる。
どうしてもというときだけ、吐き出す。
文章に、あるいは会話として。

ゆっくりと長い年月をかけて聞き取り、理解しようと努めていても私は当事者ではない。
少なくともその病の当事者ではない。
理解しようとも出来ずとも受容の可能性を探る。
聴く。頷く。本を読む。尋ねる。見守る。
時間を掛けて答えを探る。

これは、私の私だけの理解だが、精神の病についての理解とは努力で出来るものではないと私は思っている。
理解とは才能だ。
自らの病を理解するもの、病んでいても自らを理解できぬもの、我が子の病を理解できぬ親、病んだはないけれど理解できる友人。
人の有り様はそれぞれだが、理解は努力ではない。
単に才能によって行われる。
チャンネルが開いているかだけの問題なのだ。
ただ、理解は出来なくても理解しようと努力することは出来るし、理解できなくても受容することは出来る。
仮にどちらも出来ないとしても、努力しようとするふりは出来る。
大事なのは理解できないことを理解することと、理解できないことを理解したうえで理解しようと努力することだと私は解釈している。

本当に、絶対理解できない闇はある。
それは知らないか、知られていないか、気づいていないだけだ。
光が濃いところは、闇もまた濃い。

私は医者ではないし、カウンセラーでもない。
一介のただの人間で、病むものであると同時に友人だ。
絶対の救いはない。だが支えることはできる。
いま、こうして支えられているように。

いつか彼女の存在を作品にしたい。
彼女を書き、彼女のすべてを写し撮りたい。
闇よりも光よりも闇の中で手探りで生きる人こそを美しい。
足掻き、藻掻き、悩み、惑い、苦しみながら飛翔するその姿こそが美と呼ばれるに相応しいだろうから。