Hazuki Natuno

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私の中で泣く小さな子どもを抱きしめながら

私の中で泣く小さな子どもを抱きしめながら

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10月16日、ひさしぶりに撮影の仕事の日だった。
朝、前浜でヨガをして帰宅すると、私がすごく大事に育ててきたパパイヤの苗を、私の家の大家さんが自分の庭に私に無断で植えていた。
とてもショックを受けた。

去年種を自分で採って、今年7月から3ヶ月間、毎日水をあげて育ててきた。
8鉢植えて、4本育った。
2本は大家さんの庭に植えて、残りの2本も自分の手で庭に植えるのを楽しみにしていた。
正直、植えられた苗を抜きたいぐらい怒っている。
大家さんになるべく冷静に怒りを伝えた。
大家さんは謝ってくださったけれど、怒りが収まらなかった。
撮影の仕事ができないのではないかと思うぐらい、めちゃくちゃ泣いた。

私は「私の大切にしているもの」を勝手に触られることが嫌いだ。
私は虐待の影響で自分の大切にしていたものを、勝手に触られたりいじられるのが本当に大嫌いだ。
過去のことも思い出して本当に哀しいし、とてもつらい。

幼い頃、私は毛布カバーが好きだった。
毛布カバーの手触りは匂いは安心できて、私にとって毛布カバーに触れることは大切なスキンシップだった。
私の家族は殴ったりいじめるだけで、抱きしめたり撫でたりしてくれなかった。
毛布カバーは私を殴らない。
むしろ私を優しく包んでくれた。
私は毛布カバーが大好きだった。

だけど、私は母親にたびたび私の毛布カバーを勝手に洗われたり捨てられたりした。
母親は私が毛布カバーにどんな気持ちで触れていたか、理解しようとしなかった。
ただ「汚い」と言って、勝手に洗ったり捨てたりした。
洗われて体臭の消えた毛布カバーは洗剤の匂いがした。
私が求めていたのは、人の香りのするものに包まれることだった。
新品や洗い立ての毛布カバーではなかった。

いまでも人に勝手に私の物を触られたり、いじられたりすると、言葉にならない怒りを覚える。
いま現在の怒りが呼び水になって、過去の私の怒りや哀しみが眼を覚ます。
パパイヤの苗のことで、過去が甦った。
私の気持ちなんて1mmも大切にされなかった子ども時代は、私の中でまだ続いている。
すごく哀しい。すごくつらい。
パパイヤの苗に何も罪はないけれど、正直根こそぎ抜きたいか、踏み倒したいとすら思う。

私は感受性が強いのに、自分の感情を感じるのがとても苦手だ。
虐待の影響で、他人の感情を感じ過ぎて、自分の感情は上手く感じることができない。
最近それに気づいて、以来「自分がいまなにを感じているか」をとても気をつけてる。
被虐待経験者は感情を感じたり伝えるのが苦手だと思う。
私にとって自分の怒りの感情や自分の心の傷を伝えるのは勇気がいる。
自分の感情をリアルタイムで感じることは、私には大変ハードルが高い行為だ。

最近「私は自分の感情を感じることが苦手だ」と気づいてから、自分の感情になるべく注目するようになった。
自分の内面や感情に丁寧にフォーカスを当てる。
すると、少しずつ自分の感情が感じられるようになってきた。
私の感情は、接する相手によって感じやすい場合と感じにくい場合がある。
相手の感情に繊細なタイプの人、相手に配慮してくれるタイプの人だと感じやすい。
自己中心的で、相手の内面に無関心な人は接していて私の感情を感じにくい。

その後、大家さんに気持ちを話して、パパイヤの苗を17日に植え替えることになった。
本気で苗を根元から切りたいくらい怒っていたから、大家さんが真摯に対応してくださって、ほっとした。
今日の怒りは私にしては比較的早く気づけたし、うまく伝えられたほうだ。
撮影後、家に帰ってくるとまだ怒りの感情が残っていた。
今後、パパイヤの苗を見るたびに何度も怒りを感じるだろう。

自分のいま感じてる怒りと過去に踏みにじられてきた怒りが入り混じる。
もう少し、いまの感情を感じやすくなったり、感じていることがスムーズに伝えられるようになれたらいいのにといつも思う。
私の感情の感じ方は子どもよりも拙くて、我ながら歯痒い。

いまの私にとって大切な幸福が二つある。
一つは「自分の感情を感じること」。
もう一つは「感じたことや考えたことを自分らしく表現すること」。
幸せに育った人なら当たり前に持っているこの二つが、私には掛け替えのない目標になった。
きっと他人から見たら、馬鹿馬鹿しいぐらい初歩的なことだろう。
それでも、いまの私にはささいなことで泣いたり怒ったり喜んだりすることが必要なのだ。

私の心の中に、まだ毛布カバーの記憶がある。
心の片隅にパパイヤの苗が加わった。
私は私の中で泣く小さな子どもを抱きしめながら、今日も生きていく。