父と別れた日の記憶を私は持たない。それは、私が三歳の日のことだ。
父と母が離婚したのは、父が働かず、母に暴力を振るったことが原因だった。母は家を飛び出した。それ以来、父に会ったことはなかった。名前も知らない。それは私の家庭ではごくありふれたことで「お父さん」という言葉は出してはいけないのだと、思っていた。
「お父さん」という言葉を心の中で言えるようになったのは十九歳のときだ。それまで、私は私の名字が変わったことを不思議に思っていた。三歳のある日、母方の実家の窓から家に入ったという記憶。
それ以後の記憶はすべて持っているのに、父の家、父たちと暮らした家、父の名前、父方の親族、なにもかもすっぽりと失われ、「父に会いたい」とすら言えなかった。それはひどく、ひどく哀しい経験だった。
私は自分に父親がいるかどうか以前に父とはどういう存在か、わからなかった。すっぽり、すっぽりと抜け落ちていた。私は苦しみを一人で抱え込んで、十歳のころにはベランダから飛び降りたいと考える子どもになった。
「父に会いたい」と言えるようになったのは二十五歳になり、精神科に通院し始めてからだった。私はその頃、何度も自殺未遂を繰り返していて記憶がないけれど、カルテに自分の心の痕跡が文字として残っていた。
長い、長い闘病の果てに私は父に会えた。それは治療をはじめてから八年、父と母が離婚してから三十年後のことだった。
名前も知らない、住まいも知らない、連絡先もわからない人を探すことはひどく骨が折れた。それでも連絡をとり、会うことができた。父は私の知らなかった幾つもの話を教えてくれた。
父方の祖父が写真好きだったこと。ニコン派で、旅行に行くたびにすべての写真を焼き、それを人にあげていたこと。最後は8mmにはまり、「写真より動画のほうが安上がりだ」と笑っていたこと。
父方の従兄弟の一人が山岳写真にはまり、K2というエベレストより少しだけ低い山で、写真を撮りながら遭難して死んだこと。
初めて会う父は、私と頬骨が似ていた。そのことを告げると、「俺の母親に似たな」と言った。父方の祖母には会ったことはない。母が嫁入りする前に亡くなっているからだ。でも、やはり血は遺伝するらしい。
父は別れ際に言った。「親は嫌われたほうがいい」
そう、言いながら私を車で駅まで送り、白い封筒を渡して去っていった。
私は最後まで父を撮れなかった。父を写真に撮ったら、それが父の最後の写真に、父の遺影になってしまう気がして。
私は父を失いたくなかった。だから、撮れなかった。
帰宅する途中の電車の中で封筒を開けると、新札で十万円が入っていた。
私は父から「ごめん」と言ってほしかった。
「会いに行かなくてごめん」と。
だけど、そうした言葉を、例えば「愛してる」とか「ありがとう」とか「ごめんなさい」と言えない性格はひょっとしたら父譲りなのかもしれない。私も母に感謝していると、愛していると、父と母を愛していると話せるようになったのは最近のことだから。
父に会いに行って一年後、思い出したように母が言った。
「そういえば、おじいちゃんはレントゲン写真を撮っていたわ」
父と父方の祖父の家業は接骨院だ。
柔道整復師の資格にはもちろん、レントゲン技師の資格は必要ない。
「被爆防止の服とか着ないで、お客さんの写真を撮って、小さな暗室で焼いていたわ」
「お父さんも?」
「ええ、お父さんも」
そんな話を聴くのは初めてだった。私は笑った。
被爆も恐れずに、人を癒すための写真を撮る。
そんな父や祖父のことが大好きで。
そんな、父と祖父の血を引いていることが嬉しくて。
私はあれから、父と会っていない。父と母の実子は私一人だけだから、いつか連絡がくるのかもしれない。
亡くなった、という連絡が。それとも、こないのかもしれない。
それでも、二度と会うことがなくても、これだけは言える。
私は、父のことが好きだった。例えどんな人間だったとしても、私という人間を産み出してくれたことに感謝している。
そして、父の頬骨の形を忘れることはないだろう。
なぜなら、鏡を見ればそこに見つかるのだから。
私は頬を撫でる。血の繋がった、誰かを想いながら。
2011年4月5日記す