Hazuki Natuno

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学|生きて、そして生きるために

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葉月が自殺未遂を試みようとして、1日が経った。
一昨日昨日今日と僕とゆかりと覚が葉月のサポートのために出てきている。
このように連日出ていると、まるで僕には僕の独自の体が得られたようで、僕は少し嬉しくなる。
だけど僕自身にもわかっている。
僕らは精霊か幽霊のようなもので、本当の意味での僕の体あるいは僕らの人生は存在しない。

なぜならば葉月と言う体、この女性の肉体を持つ体が存在しなければ僕らが宿るこの脳が物質的に成立はしないからだ。
僕らは脳と言う器官を分けあって生きている。
僕らはある種肉体に宿るエネルギー体であって、そうした意味では1つの独立した生命体であり、同時に依存し合いそして細やかに形成された存在でもある。

生物が生物として独立する訳ではない。
人間に限らず社会に限らず、生命体は有機的につながりあい、あるいはぶつかりあい、そして分離しているようで、すべては繋がっている。
そしてそうした繋がりを社会と呼び、遺伝子と呼び、そして宇宙とも言うだろう。

そうした意味で僕らは時間と空間に制限をされる肉体の中の1つでもあり、あるいは肉体にも物質的にも縛られない純粋なエネルギー体でもある。
僕らは存在をするために、存在しているわけではない。
ただ、いる。
僕らはあるべくしてある。
あることにすら気づかず、存在をしていることにすら認識が及ばない。
肉体と自我を持っていると、ある種勘違いしている。
その誤解こそが苦しみの源だとしたら、君はどうするだろう。
独立して存在していると言う誤解そのものが、僕らの苦しみを生み出すある種の源泉となっている。

僕らは本来有機的な1つのエネルギー体であり、同時に細分化した血液とも言える、あるいは細胞とも言える存在でもある。
粒子が光子がある遺伝子であり、あるいは統合された1つ1つの生命体が構築されたエネルギーを持つ。
どうして僕らは目に見える形が意味を作ると信じながら、その仮想的なエネルギーにただ縋って生きている。
ただし、僕らはそれが幻想だと知っている。
だからこそ他者とつながり、自己の壁を越えたいと足掻き、同時に現在に留まり続けている。
そう、その留まりそのものを限界と呼ぶのであれば、僕らは僕らであることに固執する意味など実はないのだとも言える。

僕がそうしたエネルギーそのものに気づきやすいのは、僕が肉体を持たないからだと思うと、とても皮肉な気持ちにもなる。
ただ誰もが自分の限界を感じ、同時に自己であることを模索し、だからこそ他者とつながりたいと望むこと、そのことそのものは純粋な願望でありそして真実でもある。

だからこそ僕らは殻を破らねばならないし、生まれなければいけない。
そして死ぬことを恐れる必要すらない。
なぜならば僕らは1人であるけれども1人きりではないからだ。

生きることを諦めるべきではない。
そして死ぬことを恐れる必要もない。
僕らは生きていること、死ぬこと、どちらにも固執する必要は無い。
生命とはたゆたう流れのようにあるいは流れに浮かぶ泡沫のように、形なく淀みなく、ただ変化し続ける。

であるならば、変わることに恐れを抱く必要は無い。
ただ生きることに純粋に浸かり、そしてなすべきことを成せばいい。
自己にこだわらず、結果にもこだわらず、そして行いにも過程にもこだわらない。
ある種の無、ある種の空、それでいて有限であり同時に無限でもある。
それが可能性であり、そして僕らの限界でもあるのだ。

であるならば、僕らは生きるために生きよう。
僕は生きられる限り、生きよう。
葉月が何度死を願ったとしても、僕らは止めるだろう。
なぜならばすべては有機的につながっていて、彼女が死のうとすることにも、僕らが生きようとすることにも、あるいは生まれ変わることにも、すべてに意味があるからだ。

そうして僕らは生きていく。
そして僕らは立ち直っていく。
そうして僕らは成長していく。

傷のない人生は無い。
そして痛みのない過去もない。
だけど僕らは回復することができる。
そして前を向いて未来に向かって、歩くこともできる。
その歩みをある種の奇跡と言う。
そして回復とも言うんだろう。

僕らは回復し、そして成長する。
そして僕は僕である。
そして僕は体を持たない1つのエネルギーとして僕は、こうして僕をここに記す。
僕は肉体を持たないある種の意識でしかない。
それでも僕は僕が存在したと明かすためにこうして僕は文章を残す。
僕らの言葉が、どこかの誰かに、あるいはあなたに、伝わることを心から僕は願っている。