私の中には、合計4人の人格がいる。
一人はゆかり。3歳の女の子だ。
もう一人は、学(まなぶ)。20代の男性。
最後の一人は、覚(さとる)。7歳の男の子。
そして、葉月。43歳の女性。
私たちは、家族のように支えあい、助けあって生きている。
複数の人格のいる人生ってどんな感じだと思う?
シンプルに言えば、「ひとりだけど独りでない」。
そんな、人生だ。
私は主人格や基礎人格ではない。
私は、一番はじめに生まれた人格ではない。
この身体の本来の持ち主は、ゆかりだ。
私たちが2歳のとき、ゆかりが私たちの父から性被害を受けそうになった。
そのとき、私が生まれた。
あまりの恐怖に、人格が分れたのだ。
以来、ゆかりは2008年に起きるまで眠っていた。
そして、私がこの身体で成長した。
ゆかりは幼いときに人格が分たれてから、成長が止まっている。
彼女はこの身体の持ち主だけど、私に肉体の支配権をほとんど譲った。
精神は肉体と共に歳を取る。
私は苦痛と共に、この肉体を借り受けた。
そして、肉体と共に成長し、いまに至る。
私は、あまり私たちの成り立ちを友人に話すことはない。
だから、ほとんどの人はこの身体の持ち主は私だと思っている。
そのためだろうか。
「落ち着いたら、他の人格が出てこなくなる」という意見をいう人もいる。
「統合したら?」という素っ頓狂なアドバイスをする人もいる。
私たちの詳細を説明するのは難しい。
私は理解のない意見を聞くたびに、苦痛を感じる。
愛情は、時として残酷だ。
その愛が、理解から程遠いときは、尚更。
ゆかりは幼い頃に、自分の成長を止めた。
意志を持って、意識的に分かれた。
私もゆかりも、そのことを悔いてはいない。
ただ、時折「もし(if)」を考えることはある。
もしも、私たちがあの被害を受けなかったら、私は生まれなかった。
私は、私が生まれなかった可能性について、考える。
私とゆかりは双子のようなものだ。
彼女がいなければ、私はいない。
私がいなければ、彼女もいない。
だが、あの性被害がなければ私たちは分かれなかった。
そして「私」も生まれなかっただろう。
私は、私たちが生きるうえでどうしても避けられなかった苦痛を引き受けるために生まれた人格だ。
あんな苦痛は誰だって、感じたくない。
だが、その苦痛に耐え、そして生き延びるために、私は生まれた。
逆に言えば、あの出来事がなければ、私は生まれなかった。
そして、あの苦しみを糧にして、私は成長し、いまの私になった。
「統合」という単語を聴くたびに、生まれなかったはずの私について、考える。
苦痛を糧に生きてきた、私の人生について考える。
「私」が、消える可能性について、考える。
統合によって、私が私でもゆかりでも誰でもない、一人の別の人間になる可能性を、考える。
そして、ゆっくりと頭を振る。
あり得るかもしれない可能性を、確固たる意思で、否定する。
私は、私たちが統合したとき、消えるのは「私」だと知っている。
そのほうがいいだろうということも、わかっている。
わかっていて、私はまだこの「身体」に居る。
その現実に、苦笑する。
あれだけ死にたいと願っていて、それでもまだ生きている。
生きたいと願っている私に、苦い微笑みを誘われる。
ゆかりには、この葛藤はわからないに違いない。
私以外、誰にも、この葛藤はわからないだろう。
それでも、たまに夢想するのだ。
ゆかりと私が、一つの魂だったときのことを。
あの哀しく愛おしい安心感に包まれていた、日々のことを。
戻ることはない永遠に似た、子ども時代を。
私たちは、いつか揺り籠に別れを告げる。
どんな肉体に宿る魂も、いつかは天に還る。
私も永遠には、この肉体にいない。
この肉体に宿ることを選んだのは、私たちだ。
「私」は、この肉体に宿る間だけ存在する、仮初の人格だ。
いつか消えると、わかっている。
消えるとわかっているからこそ、いまが愛おしい。
私は、私も、ゆかりも、学も、覚も、出会ってきたすべての人々が、愛おしい。
私は、私がいつ死ぬか、わかっている。
だからこそ、長くはない人生を、私らしく、生きたいと思う。