写真の一番哀しくて、それでいて美しいところはすべて「過去」だということだ。
撮影した瞬間から、それは過ぎ去り、消えていく。
消えていくとわかっているから、撮る。
それは永遠に叶わない片想いの恋に似ている。
必ず「失う」とわかっている。だけど動く恋情と哀惜は限りなく美しい。
いつか必ず失うとわかっていて、それでもその瞬間を永遠に留めたいという願いは恋に限りなく似ていると思うのだ。
だけど、その恋は叶わない。時間は必ず過ぎ去っていくものだから。
このいまというかけがいのない時間が、瞬間が、機会が、必ず失われるものだとわかっている。
だからその限りない儚い時間を永遠に閉じ込めておきたくて、人間はシャッターを切るのかもしれない。
昨日、偶然に好きだった人の写真を観た。
その写真は限りなく綺麗で、透明で、痛かった。その痛みは恋に似ていた。
人間が共に居られる時間は限りなく短くて、儚い。
その儚い一瞬をどうしても留めたくて、人は撮り、また観るのだろう。
過ぎ去っていく過去の記憶を、限りない愛と、切なさを抱えながら。
その痛みを感じていたいと願いながら、人はまた生きていくのだろう。
写真は恋に似ている。
過ぎ去るとわかっていても、愛さずにはいられない。
失うとわかっているから、愛さずにはいられない。
2011年7月18日記す