今朝も海に来た。
海での朝ご飯を食べ終わって海を眺めていたら、静かに雨が降ってきた。
雨はあっという間に強くなり、私は東屋で海に降る雨を眺めながらこの日記を書いている。
雨足は強く、すぐには止みそうにない。
海に降る雨はとても穏やかで、美しい。
誰もいない浜辺で、こうして雨を見ていると心が洗われていくような気持ちになる。
急に降った雨に鳥たちも木陰に避難した。
タコの木の葉が雨に打たれてかすかに揺れている。
空は雨雲に覆われ、今は霧のような雲が島を包んでいる。
観光客たちは、今頃宿でゆっくりと朝ご飯を食べているだろう。
この海とこの雨の中には、いま私しかいない。
私は寂しいような幸せな気持ちになる。
太平洋に浮かぶこの小さな島でこうして雨を一人眺めていると、この島に私がたどり着いたことそのものが奇跡のようで宝物のような大事な時間なのだと思わされる。
8月に受けた子宮がんの検査は異常がなかったと医師には伝えられた。
緑内障の疑いや、足の怪我、ヘルニア、子宮の異常。
こうして体に立て続けに異変が起きると、私も若くは無いのだと思い知らされる。
この島は若く健康な人間以外はほとんどと言っていい暮らすことが難しい。
離島にしては充実した診療所があるが、MRIもなく専門医もいない。
産婦人科であれ、外科であれ、少し大きな怪我や難しい病気になれば全て内地の医療機関にかからなければならない。
つまり衰えたもの、健康を害したもの、あるいは歳をとったものはこの島に住むことが非常に難しい。
私も43歳と言う歳になって老いと言うものが身近になってきた。
もちろん本当の意味で例えば歩けないような、目も見えないような、あるいは食べることもできないような、そんな衰え方を私はしているわけではない。
それでも体力の衰えや目のかすみ、あるいは体の痛みや不調、そういったものは徐々に顕著に現れている。
人よりも体力のない私だから、よほどのことがない限りいつかはこの島を去る。つまり私が今この島にいると言う事は短いつかの間の奇跡なのだ。
私はその奇跡を完全に生かしきれているとは言い難い。
だが疲れた鳥が羽を休めるように、ボロボロになった私をこの島は癒してくれた。
初めて旅行で来た時も今回の再移住の時もこの島で私は何度癒され、生きることを励まされてきただろう。
私がこの島で出会った様々な人は、私があなたの笑顔やあなたの生き方にどれだけ励まされ、あるいは元気を与えられてきたかそんなことは自覚がないだろう。
でも確かに私は、この島に出会い、この島で出会った人々に救われてきたのだ。
傷ついた心を慰められ、痛めつけられた身体が再び立ち上がることができるようになった。
この島の海に降る雨のように優しい人々に囲まれていると、私はいつも笑いながらそれでも泣きそうになる。
優しさと言うものは残酷で、永遠には続かない。
もっとはっきり言えば「いま」と言う時はすべて変化する。
いまはいまでしかない。
永遠は存在しない。
すべては一刻の夢のようなものに過ぎない。
だからこそ、愛おしい。
だけど人間は愚かだから、今が過ぎ去ってみなければその時がどれだけ貴重なのかがわからない。
今の私のように、誰かと共に在れることを、誰かと共に過ごす時間、一緒に共有した思い出がどれだけ大切なものか、過ぎ去って失くしてみなければわからないのだ。
それでも失くしてしまうとしても、私が本当の意味で理解していないとしても、今こうして雨に包まれたこのひとときの安らぎを、でき得るならば覚えていたいと思う。
雨が止んでまた青空が見えてきた。
今日も一日が始まる。
さぁ、また歩き出そう。
私は名残惜しく海を見ながら、次に向かって歩き始めた。