Hazuki Natuno

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撮るという愛

撮るという愛

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あるイベントを撮らないことになった。
少し寂しい。
だけどほっとしている。
正直荷が重かった。
私はいま、写真を撮りたいと思っていない。

どうしてこんな風になってしまったんだろう。
写真を撮りたいと思っていた私はどこに行ったんだろう。
写真を撮ることがあんなに好きだった私はどこに消えたんだろう。
こうやって言葉で感情を話せるようになった。
少しずつ、少しずつ、だけどそれでも感情を感じるようになった。
感情を感じ、そして感じていることを相手に伝えたり言葉にできるようになった。
少しだけ進歩した自分がいる。
だけど写真が撮れなくなった自分がいる。

写真は私にとって、言葉にできない感情だった。
言葉にならない悲鳴だった。
それでいて言葉にできない愛情だった。
私はいま、こうして感情を言葉にするという力を得た。
そのかわり言葉にならない気持ちを表現する方法を一つ失った。
撮りたいと思えない自分が悔しい。
それでいて、こうして自分の気持ちを感じられるようになって嬉しいと感じている自分がいる。

感情を言葉にすること、リアルタイムでいま感じていることをいま言葉にすること、いま感じることをただ自分に許すこと。
そうした普通の人が成長する過程で当たり前にできた当たり前のことを、私はいま一つ一つ学習しているんだろう。
その対象として私は写真を撮りたいと言う気持ちと撮ると言う行為、撮ることで得ていた自己表現を失った。
あるいは消え、喪失した。
すごく寂しいと思う。
だけど撮りたいと思う。

いまの私は昔の私と、かなり違う。
昔の私は認められるために撮っていた。認められたいと思っていた。
愛されたいと思っていた。
受け入れてほしいと思っていた。
仲間に入れて欲しいと思っていた。
でもそんな感情はいらないんだと、最近わかってきた。

無理に愛される必要はない。
無理に仲間に入る必要もない。
本当にやりたいこと、本当に好きなこと、本当に夢中になれることを、ただすればいい。
それが例えどんなに、仲間がいない物事だったとしても、私はそれをもうそれを怖いとは思わない。

私は本当にしたいことをしたい。
そしてしたくないことは、もうしたくない。
本当に撮りたいときに、本当に撮りたいものだけを撮りたい。
本当に撮りたいものを撮りたい。
本当に表現したいものを表現したい。
それは小笠原を撮ることではない。
仕事として家族写真を撮ることでもない。
撮ることで認められたいと願うことでもない。

私は本当に撮る価値のあるもの、撮りたい思うもの、本当に愛しているもの以外もう撮りたくない。
何度でも言う。
私は本当に愛しているものだけを撮りたい。
本当に残すべき価値があるものだけを撮りたい。
私が心の底から撮りたいと思うものを撮りたい。
それがなんなのか、いまの私にはまだわかっていない。
ただもう撮ると言う行為そのものにアディクションすることは今の私にはもう不要だ。
撮ると言う行為に没頭し依存する人生は、私にはもういらない。

いまの私は、撮らなくても生きていける。
だけど撮りたいと思うものに巡り会いたい。
本当に撮りたいものだけを撮りたい。
だからこそ、私はいまカメラを持ちたくない。
誰かにあわせるのでも、誰かに媚を売るのでもなく、自分に嘘をつくこともなくただ本当に撮りたいものを撮りたい。
それがなにか、まだなんだかわかっていない。
けれども撮ると言う行為に逃避するのではなく、本当に撮るべきもの、本当に撮りたいもの、そうしたものを撮りたい。

頭で考えるのではなくて、心の底から自分が望むもの、本当に愛しいと思えるもの、そうしたものを撮りたい。
それがまだ何だかわからない。
でも空と海の間にある、自分にはまだ見当もつかない、この愛情のような胸にある深い何かが形になればいいなと思っている。