Hazuki Natuno

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拒絶

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人生で一番始めの記憶は拒絶だった。
だから私はなにもかも忘れることにしたに違いない。

父と母が離婚したのは私が三歳のときだった。
真面目な母と遊び人で定職にも就いていない父が結婚したこと自体があり得ない不思議だと言えば言えなくもなかったし、生真面目で潔癖性な母がどれだけ耐えても二度も横領するような人物を夫にすることは妻として以前に人間として耐えられなかったに違いない。
気がついたら私は母の生家にいたし、私にとっての生家も父の顔も父方の祖父の温もりも知らなかった。
それでも、父が恋しかった。父方の家系が恋しかった。祖父が恋しかった。
それは私が多分に母方の家系の人間性を受け継がず、一族の中で異端児の傾向を幼い頃から見せており、幼心にその原因は父との混血によるものだと悟っていたからに過ぎない。
私は私の本性として、回帰願望を抱いていた。
なによりも記憶が欲しかった。

幼い頃から私は不思議だった。
五歳時には三歳児からすべての記憶を全て欠けることなく所有していたというのに、なぜ三歳以前の記憶だけすっぽりないのだろう。
年を経て、小学校に上がり中学校に進学しても私の記憶力の良さは欠けること無かったがそれ故に記憶の欠損が奇怪で奇妙に思われた。
覚えていないというものではなくただ単に「ない」のだ。
そんなことはあり得るのだろうか。
私は年を取るにつれ一つの仮説を持つようになった。

ないのではない。
拒絶したのだ。

父が、祖父が、存在した記憶そのものを拒絶すれば失われた傷みを感じずにすむ。
幼い私はそうして離婚から得るはずだった傷みをすべて拒絶した。

仮説は二十二年後に立証された。
二十五の夏、母が離婚以前のアルバムが見つかったと私に見せた。
私は記憶を所有してから初めて父の顔写真を見た。
湯船の中で笑う父の笑顔は、そのとき愛し付き合っていた恋人にそっくりだった。
頬の輪郭から、笑い皺まで。
私の記憶は全てを拒絶したのに、無意識のうちに本能は父を欲していたのだろうか。
ずっと、ずっと、ずっと。
なにかを叫んだことは覚えている。なにを叫んだのかはもう、わからない。

やがて時間が経つと共にあのときの感情を受け入れられるようになった。
私は父を愛していた。父方の祖父を愛していた。父方の家も、家系も、愛していた。
だから幼い私には別れることが耐え難かったのだ。
それこそ、記憶を継続することが困難なぐらいに。
記憶は忘れても感情は覚えている。本能は愛情を覚えている。
愛された記憶を。愛した記憶を。
愛された経験が深ければ深いほど、喪失に耐えられない。
引き裂かれる現実に耐えられない。
だから、現実を拒絶するために記憶をすべて封印したのだろう。

父方の祖父は亡くなって、久しい。
私は一度だけ墓参したことがある。
墓の前に立っても祖父の顔は思い出せないが、やはり葬式には出たかった。
母から父方の親族の話を聞くたびにやるせなく切ない郷愁に駆られる。
父はまだ生きていて、市内のアパートにいるらしい。
一度も養育費を払ったことのない、父。
家裁からの通達も母の抗議もすべて無視した、父。
離婚後一度たりとも面会にこなかった、父。
連絡をとりましょうかという母に私はまだ首を振る。
まだ、その時期ではないと知っているから。

父から拒絶された現実を受け入れるとき。
そのときが私が拒絶し続けた記憶を、
拒絶し続けた幼い日の涙を、受け入れるときなのだろう。

その日はまだ、こない。

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