ひさしぶりにパソコンを立ち上げ、データを整理していたら古い写真が見つかった。
昨年亡くなったある野良猫のポートレイトだ。
この写真を撮ったのはもう、ずっとずっと前のことだ。
私は少し、泣きたくなった。
去年一年間いろいろなことがあって、撮影するたびになにかが失われていった。
自分が育った家。24年間、餌付けしていた野良猫の一族。人間関係。
シャッターを押すたびに、煙のように消えていった。
撮られることで、写真に残ることで別れを告げるみたいに。
撮ることは別れの儀式のようだった。
「さよなら」と言えない代わりに撮らせてくれている。
そんな日々が続いた。
私はだんだんと撮れなくなった。
私は写真の本質は「遺影」だと思っている。
儀式に使われるための写真、という意味ではなく言葉通り「遺された影」だと考えている。
私たちの眼の前の現実は必ず失われる。
必ず、間違いなく、失われる。
ただ、ほとんどの人間はそれには気づかない。
眼の前にある現実や人間や状態が「いま」そこにあって、その「瞬間」が過ぎ去れば失われるのだと気がつきたくないのだと思う。
写真は忠実なぐらい残酷だ。
シャッターを押す瞬間の「いま」は「そこ」にしか存在しない。
そしてそれに気がつきながら、押すしかない。
そこに残るのは「それがやがて失われるのだ」という虚無に似た確信だけだ。
その現実は限りなく残酷で、だからこそ美しいのだと思う。
この写真に写る猫も、その子猫も、猫の母も、そのまた母も、いまはもういない。
だけど、自分がどんな気持ちでそのときシャッターを押したのかは覚えている。
その気持ちを想い出すことは痛みを伴うけれど、だからこそその痛みを忘れたくないとも思う。