大雨が、降っている。
父島の雨は、スコールに近い。
突然、降り始める。
いまは雨季に近く、天候が乱れやすい。
今朝、起きたときは曇りだった。
洗濯物を洗うか悩む間もなく、雨が降り始めた。
私は、こうして文章を書いている。
雨にかき消されるように、心のざわめきが消えていく。
心が静かに落ち着いてくると、心の声が聴こえてくる。
心の声は、とても小さくて、聞きとりづらいことがある。
そんなときは、黙って心に寄り添う。
心と身体を鎮めて、聴こえてくるものに耳を澄ます。
そうすると、ようやく声が聴こえてくる。
私の心は、話し上手ではない。
どちらかというと不器用だ。
なにがしたいか、なにがしたくないか。
なにが好きか。なにが嫌いか。
私がわがままだから、油断するとすぐ心を無視してしまう。
心はさみしがりだから、無視されると黙っている。
そして、そっと泣き始める。
私は、私でいて、私ではない。
私の心も、私の身体も、私のものではない。
心には心の意思が、身体には身体の感情がある。
彼らの意思や考えや気持ちを無視してはいけない。
心や身体の感情を無視すると、あっという間に関係が壊れてしまう。
私たちが考えているより、心や身体との繋がりはデリケートだ。
どうしたら、心や身体と仲良くできるだろう。
それは、穏やかに静かに自分を鎮めることだ。
自分というエゴを減らし、意識を自分から解放する。
生まれるより前につながっていた宇宙とのつながりを意識する。
すべては一つではない。眼に見えるものが、すべてではない。
だけど、つながっている。
私たちは、生きている。
だけど、生きていない。
同時に、生かされている。
人は、一人では生きていけない。
心や身体、あるいは人とのつながりが必要だ。
だけど、つながりに依存する必要もない。
樹が森になるように、波が海であるように、
人間もひとりでもあり、独りではない。
つながっていて、一つではなく、それでいて包まれている。
そうしたことを教えてくれるのも、私の心だ。
生きていくことは、時に哀しみを生む。
だけど、その悲しみにひとり耐えるのではなく、つながって癒していきたい。
身体を得たからこそ生まれた限界を、制限としてではなく、学びとして活かしたい。
心の声を聴き、身体と対話し、自分を深く味わいたい。
産まれてきた意味は、喜びと共にそこにあるのだから。