Hazuki Natuno

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新しい月

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失いたいと願ったのは私のはずだった。
だから神様は、願いを叶えたに違いない。

気がつけば、担架で運ばれていた。
優しく柔らかな指が、私の脈拍を図る。
辛かったんだねと、看護師が私にささやいた。
胸の痛みとはまた違った別の痛みで、涙が零れた。
目蓋も指も首も動かせず、だけど意識はあった。

医師の問う言葉に一つ一つ返事をしようとする。
意識はあるか。イエス。
鎮痛剤を使われたいか。ノー。
点滴の針を刺しますと看護師が言う。
動かない身体で、私は針が体に刺されていくのを見つめていた。

ゆっくりと薬液が私の身体に染み通っていく。
肺と心臓はまだ痛い。
冷え切った私の手足を夜勤の当番の看護師が摩る。
「寒かったですね」と彼女が言う。

私は気づく。
そうだ。寒かった。
それ以上に、辛かった。
そして、痛かった。

彼女の手のぬくもりから分け与えられるように、私は意識を取り戻していく。
ゆっくりと目を開ける。
私の意識が遠ざかり、覚が目覚めた。
覚が何か医師と話をしている。
直近の私の精神状態や私が倒れた理由について、2人が推測する。
そうじゃないと私は言いたかった。
そうじゃない。
私が倒れたのは、そんな理由じゃない。

私には分かっていた。
私が倒れたのは、あの人のことを忘れようとしたからだ。
忘れられないものを忘れようとするとき、人間は喪失とも呼べない痛みを味わう。
心臓がえぐり取られるにも似たその痛みをなんと呼べばいいんだろう。
私には、わからなかった。

翌朝目覚めると、学が診察室に来ていた。
昨日倒れて介護された診療所で、彼が医師と何か話している。
私の処遇についてらしい。
私は動かない身体と声にならない声で「違う」と叫びたかった。
違う、私が倒れたのはそうじゃない。
私がして欲しいこともそうじゃない。
私がして欲しいのはと口に出そうとして、ゆかりが目覚め切り替わった。
「葉月が望んでいることは違うと思うよ」と、小さな女の子の声で彼女が言う。
彼女は学よりも覚よりも、遥かに的確に私の望みを知っていた。

葉月はね、あの人と一緒にいたいんだよ。
あの人のことが忘れられないんだよ、と彼女は続けて言う。
だからね、葉月に決めさせてあげなくちゃいけないんだ。
彼女は笑顔で、そう言った。
ゆかりの言葉に、医師は深くゆっくりとうなずいた。

診察を終え、帰路に着く。
途中で私はゆかりと替わる。
ゆかりが「大丈夫?」と聴いてくる。
私は彼女の眼を見ることもなく、頷いた。

帰宅後、仕事場の上司に電話をする。
事情を説明して、協力を願う。
彼はゆっくりと承諾してくれた。

12月30日、晴れ。
その日は引っ越しの予定日だった。
1月1日から入居する予定だった家に、私は友人と訪問した。
すでにいくつかの荷物を運び込んでいた。
段ボールに詰めた本、夏服、冷蔵庫、洗濯機。
梱包も解いていないそれらの荷物を、もう一度車に乗せて西町へ運ぶ。
全て運び終えるとがらんと空っぽな部屋が残った。

私が引っ越してくるはずだった部屋。
あの人も住んでいたアパート。
私は心の中で囁く。
はじめまして、さようなら。

管理者に写真を送るために、私は空っぽになった部屋をスマートフォンで撮影した。
ドアを閉め、鍵をかけ、もう一度ドアの写真を撮る。
そのまま振り返らずに階段を降りた。
梱包されたままの荷物を、退去する予定だった部屋に運び込んだ。
友人たちは何も言わずに手伝ってくれた。
私もあまり多くは説明しなかった。
そして私は既にいなかったはずの部屋で、この文章を書いている。

ご近所さんになるはずだった彼。
愛していた人。
その愛を忘れたいと願った人。

倒れた時に神様が、私の心の中の棘を取り除こうとしてくれたんだろう。
私は呼吸が止まりそうになるほど体温の下がったあの体で起きたやりとりを、今も思い出す。
光の下からやってきた私の守護天使が、息のできない私に呼吸を教えてくれた。
その時私は、呼吸の方法を取り戻すと共に、痛みを忘れることを願ったんだろう。
狂気に似た熱情は、あの伽藍堂の部屋の中に置いてきた。
私の心は今とても空っぽで、抜け殻のように静かに凪いでいる。

忘れたいと願っていた。
好きでなくなりたいと祈っていた。
嫌いになりたいとすら思っていた。
それでも失ってみるとあの狂気が、苦しかった想いが、少しだけ懐かしい。

恋や愛と言った単語では、もう呼べないものに変貌していた。
あの気持ちを、なんと表現していいのかわからない。
それでもこの3ヶ月間、私を突き動かし支えてくれていたのは、あの人への想いだった。

空を見上げると十六夜の月が浮かぶ。
真円と呼ぶには少しだけ欠けた月の隣で、花火が打ち上がる。
新年を寿ぐ歓声が、夜闇の中に湧き上がった。
私は庭に立ち、夜空を見上げた。
月は綺麗で、星は瞬き、雲は輝いていた。
花火が消えていく。
まるで、祭りが終わるように。

実らなかった恋は、生まれなかった雛に似ている。
飛び立つことのなかった鳥の羽ばたきのように、この気持ちもいずれやがては消えていく。
だからこそ、ようやく手放せたあの狂気を、今だけはほんの少し覚えていたい。
新しい月に、そう願った。