2020年10月19日、写真家の水谷充さんが亡くなられたことを知った。
亡くなられたのは10月17日土曜、享年60歳だった。
最後にお会いしたのは2014年の水谷さんの写真展「-記憶の断片- Fragments of memories」の会場だった。
SNSを検索すると、私のように突然の訃報で悲しむ人がたくさんいた。
彼に最初にお会いしたのは2011年に行われていたフォトグラファーズサミットの会場だった。
その後、2012年にフォログラファーズサミットのスピンオフ企画「PHOTO LOUNGE」が開催されたとき、司会をしてくださったのが水谷さんだった。
確か私は作品「change of life」と「another shore」をプレゼンして、水谷さんは幾つかコメントをくださった。
当時の私はいまよりはるかに病状が重かったから、コメントしづらかったと思う。
それでも真摯に言葉を選んで励ましてくれた。
作品への感想というより、私への励ましが過分に含まれたコメントが印象的だった。
水谷さんは被写体も含め、相手を抱きしめるような、どことなく抱擁力のある接し方をする方だった。
訃報を知って、水谷さんと撮影した写真があったことを思い出した。
私は普段、人と一緒に記念写真を撮らない。
人の記念写真を撮った回数は無数にあるけれど、自分が一緒に写りたいという欲求がない。
水谷さんは逆で、ご自身の写真展のパーティ会場でひたすら楽しそうに来場してくれた友人と自撮りをしていた。
あまりに楽しそうに自撮りしていたから、一緒に撮影されたくなって撮っていただいた1枚がこの記事に使っている写真だ。
この写真を探すために、4TBあるハードディスクをぐるりと探した。
なかなか見つからなくて、ハードディスクとメールフォルダと過去のSNSの投稿を検索して、ようやく見つけた。
水谷さんはアルコールを楽しんだ赤ら顔で、私の頬も赤かった。
写真を探す過程で、水谷さんと交わした最後の会話を想い出した。
水谷さんの2014年の写真展「-記憶の断片- Fragments of memories」の会場でのことだ。
私はあまり写真展を訪問しない。
特に2013年から2014年にかけては小笠原諸島に一回目の移住をしていたから、余計に訪問しづらかった。
水谷さんの写真展のことは確かFacebookのイベントページで知った。
偶然私の個展の開催のために上京していたタイミングでの開催だったから、ふと観に行った。
写真展「記憶の断片」は水谷さんが私的に出会った人々を撮ったポートレートとスナップの作品だった。
何枚かの写真には水谷さんが取材で知り合ったであろう著名人も含まれていた。
だが大多数の被写体は無名の一般の方だった。
でも、水谷さんのカメラの前では名前のある方もない方も、ただ素顔で写っていた。
その人の表情を取り繕わず、素のままの人柄を撮る。
それは、簡単なことのようで実はすごく難しい。
撮られ慣れた人はカメラの前で容易く表情を作る。
撮影に慣れない人は、撮られることそのものに固まる。
水谷さんの写真はそのどちらでもなく、まるで被写体の人が呼吸をするように、すとんと写真に収まっていた。
私はなんだかひどく感動して、あれこれ水谷さんに話しかけた。
水谷さんは興奮して話す私をなんだか嬉しそうに見つめていた。
そして、こんなことを話していた。
「写真は撮影や加工も含め、容易く虚飾してしまうことができる。
だからこそ、僕はその人のありのままを撮りたい」
会話の細かいディテールをいまは想い出すことができない。
でも、水谷さんが嬉しそうに話していた表情をいまも想い出す。
誰も永遠には生きない。
撮る人も、撮らせてくれる人も、私も。
だから、撮るのだろう。
例えば、一緒にいた時間の記念に。
残された人との絆を、想い出すために。
共に過ごした時間という奇跡を、次に繋ぐために。
水谷さん、写真を観てくださって、撮ってくださって、ありがとうございました。
私もあなたのような、人を抱きしめるような写真が撮れたらいいなと思います。