2020年11月22日、友人たちと店で飲む。
親しい人は知っているけれど、私は下戸に近い。
お酒に弱い訳でもないし、お酒が嫌いな訳でもない。
体質的に飲むと頭痛がするので、体調の良いとき以外飲めないのだ。
この日は奇跡的に1晩に3杯飲んだ。
2軒目の店で、3杯目を飲みながら私の人格たちの話になった。
ふと、ゆかりや学や覚の話になり、彼ら彼女らの為人を話した。
彼は私と飲むのも、私が複数の人格を持っていることを聴くのも初めてなので、非常に興味をそそられたようだ。
そうなんですね、と頷きながら彼は言う。
「会ってみたいですね」
私は鮮烈な思いで、彼の顔を見た。
私たちが複数の人格を持つことを公表してから、私に対し「他の人格に会ってみたい」と言う人に初めて会った。
私にとって、複数の人格を持つ人生は特別なことではない。
風邪を引いたときに熱が出るように、人生で必要なときに人格が替わる。
それは、私たちが生きていくうえで必要な智慧のようなものだ。
私たちは、他の人より少し複雑な人生に対応するために、そうした能力を身につけた。
ただ、人と違った能力は、人に異なる印象も与える。
私たちが複数の人格を持つことを肯定的に受け止める人もいれば、否定的な人もいる。
私の友人が別人格たちの友人になってくれることもある。
友人だと思っていた人が、私の中の別人格を真っ向から否定することもある。
逆に別人格の存在を認めたうえで、彼ら彼女らの有り様を認められない人もいる。
「病状が安定したら、人格が交替しなくて済む」
「人格を統合したら?」
「本来、人間には一人の人格しかいない」
そう言われるたびに、哀しい想いをしてきた。
彼らにとっては人格の交替は異常あるいは病気の症状で、各人格の存在を認めても人格の交替が私たちにとって自然な状態であることを理解することができない。
人格たちの存在を否定されることは哀しい。
だが彼らが別人格の存在を認めたうえで、私たちにとって交替が自然な状態であることを認められないことも、ある意味哀しかった。
例えるなら、LGBTQの人が自分たちの性嗜好や性自認を認められないときに感じる淋しさに似ていたかもしれない。
そうした哀しみや淋しさを普段公言することは、ない。
理解を求めるには私たちの有り様は複雑だし、理解や受容は無理に求めて得られるものではないことも、わかっているからだ。
だからだろうか。
彼の「会ってみたい」という一言は、私の心の奥底に温かな明かりを灯した。
飲み終わって、帰路に着く。空の月が綺麗だった。
誰かのささやかな一言が灯す明かりは、希望に似ている。
その希望に似た歓びを、月が見ていた。