この世の中には、どこにも、誰も、共通の友人がおらず、すでにどこかで出会ったかも忘れ、離れ小島と離れ小島が木霊とさざ波で近況を報告しあうようにただ優しく愛を交わしあう。
そんな友人がいるとする。
たぶん、あなたにも一人二人そんな人がいて、私にも幾人かそんな存在がいる。
なにせ蜘蛛の糸のようにお互いがお互いを思い遣ることでしか繋がっていないのだから風の噂で近頃元気か、なんて知りようはずもない。
そういう人に限って大人らしく、静かに、自分の世界を、自分の歩幅で歩いており、その癖時折不器用で、真っ直ぐで、傷つきやすく、正直に生きることに足掻きながら、前に進もうと立ち止まり、這い蹲るように前進している。
そんな友の一人にある日友情の定義について聞かれた。
私は「自分が友だと思っていれば友だ」と答えた。
そのときの言葉の重みとそのとき口にした私の軽さをいま、しみじみと味わっている。
「手放すな」とある人にアドバイスされてはっと目が覚めた。
何度手放してはいけないときに手を放し、放すことでなにが生まれるかわからないまま手を放してきただろう。
それでも水は海に流れ、川には戻らない。
たぶん、愛とか恋とか超えたところで、あの友への電話が彼の些細で、小さくて、重く、シュールで、笑えない現実を聞くことが私の救いでもあったのだ。
誰かに電話したときに、その電話を喜んでくれた現実だけでも。
繋がらない電話と借りたままのCDの前で私は考える。
彼がいつか幸せになればいい。
喜びを、悲しみを、嘆きを、愛情を、すべて創ることに転化させてしまう彼が更に純化できるまで、強く強く強くなればいい。
私は手放し、彼は手放した。
卵は孵るどころか産まれることもなかった。
それでもたぶん、確かに、どこかに、お互いにとってお互いの救いはあったのだと気づくように祈るように願う。
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