8月19日から、身体の痛みの精密検査と診察を受けるために東京に上京している。
頸椎と腰部のMRIは終わり、今日は脊椎の専門医に診察を受ける予定だ。
発端は8月6日に右足を怪我したことだった。
段差から落ちて、右足首の上を段差の角で強く打撲した。
その後、打撲した箇所の痣は良くなっていったけれど、手足の先や足の付け根に痺れるように痛むようになり、どんどん強くなった。
小笠原村の診療所のレントゲンでもCTでも異常は出ない。
これは神経系のどこかがおかしい、と感じて精密検査を受けることにした。
8月21日、無事MRI検査の予約が無事できた。
だけれど、身体の痛みが酷くてつらい。
歩くことはできても、寝ても座っても四六時中痛む。
小笠原の知人に「キネシオロジー」という治療ができる治療家が葉山で治療院を開いていると聞いていたので、治療を受けることにした。
葉山町一色にあるパン屋ブレドールの近くに「えんどう治療院」はあった。
遠藤先生とオーリングテストで身体に対し、私の問題の本質を問いかけていく。
私の身体の答えは「情報ネットワークが作りたい」だった。
最適な治療として身体が求めたのは「右脳や左脳も含め、脳のバランスを取ること」だった。
ブレインジムという手法を選択し、指導の元身体を動かす。
前後左右、あるいは空間に腕や足を回して動かす。
治療が終わる頃には身体の痛みは嘘のように引き、楽になった。
世界は、広い。私の知らない治療法はいろいろあると思った。
痛みは楽になってもすべてが取れた訳ではない。
尾骶骨や脚の付け根、手先や手首や足首が代わる代わる痛む。
すでに「ヘルニアの可能性がある」とは言われている。
下手したら身体の痛みと一生つきあっていく必要があるかもしれない。
そう考えると、身体の使い方に慎重になる。
地下鉄の階段や道の段差一つも、私には大きな断崖絶壁だ。
転ばないように慎重に歩き、身体の声に耳をすます。
「こうしたら痛まないよ」「いまは休みたい」。
そうした身体からの語りかけと話しあい、私と身体の求めることのバランスをとる。
ずっと痛みとつきあっていると、痛みとは「身体に宿るエネルギーからのメッセージ」なのだとわかってきた。
私は虐待という形で、幼い頃から性被害や暴力を受けてきた。
それは心にも身体にも苦しい体験で、私は痛みを感じることを拒否して生きるようになった。
身体が痛みを感じても、魂や心のレベルで無視をする。
すると身体と脳の対話のチャンネルが切れ、痛くても「痛い」と感じなくなる。
こうした痛覚の遮断の問題点は、魂や心がすり減っていくことと寿命が短くなること。
例えるなら戦場で重傷を負っても、治療せずに戦い続けることに近い。
怪我に対し治療を受ければ、身体が長持ちしより長く生きることができる。
回復や成長には痛みを感じ、その上で癒すことが重要だ。
痛みを無視すると、魂のレベルでエネルギーを損なっていく。
自分のウィークポイントに気づかず、肉体も魂も消耗させ、結果命を縮めることになる。
「私たち」とは身体に宿るエネルギーのことだ。
この身体に一時的に宿っていて、その体が人間の形をしているから「人間」だと思い込んでいる。
だけど肉体や脳が存在の本質ではない。
宿っているエネルギーが私たちの存在の本質だ。
文化によってはそのエネルギーを「魂」や「命」と呼ぶだろう。
大切なのは、人間の肉体だけでなく、草も石も海にも人工物もありとあらゆるものや存在にはエネルギーが宿っているということだ。
そして、時として何もと思われている場所、例えば宇宙や空間にも肉体や物質を持たないエネルギーは存在している。
そのエネルギーのことを、私たちは時として「神」や「精霊」や「霊」と呼ぶこともある。
どちらにせよ、本質とは形ではない。
形はエネルギーが発露する方法の一種に過ぎない。
痛みとは、肉体が発する一種のメッセージだ。
メッセージには2種ある。
一つは「痛み」、もう一つは「気持ち良さ」だ。
もう少し分類して話すなら、この2つは同じものだ。
肉体が「もう少し話を聴いてほしい」と望んだとき、私たちの身体に痛みとしてメッセージを送る。
あるいは「もっとこれがほしい」と望んだとき、気持ち良さという感覚でメッセージを送る。
気持ち良さの場合、求めるのは行動のときもあるし、水や食べることのこともある。
肉体の求めるものは、人に身体に触れてもらうことかもしれないし、自然や地球に触れることかもしれない。
本当にやりたい夢を実現するために、行動することかもしれない。
どちらも肉体が魂に対話を求めているとき、痛みや気持ち良さというメッセージが生まれる。
私は前述の通り、生きる過程で様々な苦痛を味わって生きてきた。
そうした人生を生き延びるために、魂と心と脳と身体の痛みを感じるチャンネルを切断する選択をしていた。
自分でも痛みに感じる感覚が鈍過ぎる自覚はあったけれど、その方が楽だと勘違いしていた。
いまは友人のヒーラーたちに施術という形でサポートしてもらい、痛覚を取り戻せた。
いままで長い間身体と対話してこなかった訳だから、痛いという身体のメッセージの取り扱いはなかなか難しい。
身体に持てる以上の重い荷物を持って激痛を味わったり、座り方を間違えて腰が痛くなったりする。
心の痛みを無視し過ぎて、身体が倒れそうになったり、魂が死にたがって自殺願望が沸き起こったりする。
だけどちゃんと身体の痛みを聴いていると、身体が望む痛まない歩き方や寝やすい姿勢など身体の扱い方が少しずつわかってきた。
まるで身体という新しい感覚器官が増えたようで、非常に貴重な経験になっている。
この長い文章を読んでいる人がいたら、一つ覚えておいて欲しいことがある。
私たちはこの「身体」に宿る「エネルギー」で、痛みや気持ち良さは身体とエネルギーのコミュニケーション手段だ。
痛みも気持ち良さにも段階があるように、私たちのエネルギーにも存在する複数のレイヤー(層)がある。
すごく平易な言葉で説明すると「魂」「心」「脳」「身体」だ。
本当は実際にはもうちょっと細かく分かれているが、今回はわかりやすく説明するためにこの4つに絞る。
例えば痛み一つとっても、「魂が痛みを感じる」「心が痛みを感じる」「脳が痛みを感じる」「身体が痛みを感じる」と4パターンある。
正確には、この4つはばらばらでも一つでもなくて、連動しあっている。
それで、エネルギーのレベルで有機的に繋がっていて、それぞれの部位で感じた痛みや気持ち良さの情報交換をしている。
痛覚の遮断とは、魂たちが心や脳を通じて身体との情報交換をできなくなった状態の一種だ。
痛みや気持ち良さはエネルギーにとっての肉体からのメッセージであり、同時に私たちが身体を動かす上での情報源や活力の源でもある。
気持ち良さを感じることと同じぐらい、痛みを感じることは非常に重要なことだ。
そして、痛みは「魂」「心」「脳」「身体」などの各層で、それぞれ起こる。
その痛みを和らげたいのなら、しっかり痛みが伝える身体からのメッセージを受信して、痛みが教える気づきを受け止めることが大切だ。
ちなみに腰が痛くても身体が痛いとは限らない。
心が痛みを感じていて、その痛みを心で受け止めず心が無視した場合、その痛みは身体の痛みとなることもある。
同じように、魂が痛みを感じたとき心や身体が痛むときもある。
痛みを感じる箇所と痛みが出る場所は、時として違う。
痛みを感じる箇所で、身体やエネルギーが伝えようとするメッセージを上手く受信できないと、別の部位が痛むことがある。
だから痛みを感じたときは、痛みを感じる場所をただ治療するのではなくて、痛みが伝えようとする「メッセージの本質」を感じ、身体やエネルギーが「本当に求めていること」に気づくことが非常に重要だ。
そろそろ、診察があるから病院に向かわなければいけないので、この辺で筆を置くことにする。
最後に一つだけ、書いておきたいことある。
私たちは「あなた」でなくては感じられないことから気づきを得るために、あなたの「身体」にエネルギーを宿すことを「魂」が選択した。
私たちの魂も含め、「すべて」に存在する「エネルギー」は連動しあっている。
だから、あなたが痛みを感じるとき、別の人や別の物事からのメッセージをあなたというエネルギーが受け止めている可能性がある。
あなたが感じている痛みがあなたのものでない場合、誰のあるいは何からのメッセージを受信しているか、考えること。
そして、そのエネルギーが痛みあるいは気持ち良さを通じて、「何を伝えたがっているか」感じてごらん。
もしもエネルギーがあなたにメッセージを発している場合、あなたにはできることと、できないことがある。
あなたが行動をするか、しないか、あなたは選択することができる。
どちらにせよ、コミュニケーションは気持ち良いですよ。
あなたがあなたや私たちとエネルギーを交わしあえることを願っています。