Hazuki Natuno

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生きることは、創ること 〜複数の人格を生きる人生から学んだこと〜

生きることは、創ること 〜複数の人格を生きる人生から学んだこと〜

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葉月です。
今日は私にとっての「生きること」と「創ること」について書きたいと思います。

私と学は、先週7つの写真展を巡りました。
昨年私は、ある企業にフォトグラファー職の契約社員として採用され、働いていました。
会社員として写真撮影の仕事に精を出す一方で、写真家として作品制作に対する意欲をどんどん失っていきました。
そして、私自身が驚くほど美術館やギャラリーに行きませんでした。
作品を制作する意欲を失っていく自分に嫌気がさし、きちんと作品を制作し、発表している方々へのコンプレックスに悩まされていました。
そして、自分に向きあうことから逃げ、迷路で立ち止まるような心境で生活していました。

2018年12月27日に「生まれ変わり」を経験し、すべての価値観が変わりました。
すべての時間が自分の人生だった生活から、時間を分けあい、4人の人格で生きる生活にシフトしたことで、「時間がどれだけ大切か」痛感しました。
時間ほど貴重なものはありません。
やりたいことを実現して生きるためには、幾つかの資源や資産が入ります。
人間関係やお金もその資産の1つですが、そのすべては時間があってこそなのです。
自分の時間を使えるということは、自分の人生を生きるための、最小にして最大の前提なのです。

それに気づいたら、会社員として働く生活は本当に意味がないものだと気づきました。
時間を犠牲に、幾ばくかの給与をもらう生活は私の心を縛り、本当に生きたい人生を送る足枷になっていました。
それに、複数の人格で生活することと、1人の人格名義で会社員として雇用されることは全く両立しません。
どちらにせよ、ハードな環境で働き続けることを強いられる環境で体調を壊しかけていた私は、学や夫の協力の元、すっぱり仕事を辞めました。
そのことに、一切の悔いはありません。
むしろ「自分に合わない生き方は、もう2度しない」と決意させてくれた、あの会社と会社員して送った生活からの学びに、心から感謝しています。

1月に入ってから、私たちは試行錯誤しながら4人の人格で暮らしてきました。
その中で痛感したのは「創りたい」という気持ちでした。
何かを創ることは、自分の人生を生きることに直結しています。
私は写真や映像作品を、学は小説を、ゆかりは絵本を作りたがっていて、覚もきっと作りたいものがあると思います。
私たち4人は、自分たちが永遠には生きないと実感しています。
不安定な人格交代が日常的に起きる生活の中で、「ある日突然、自分は消えるのではないか」「出てこれる時間がもっと短くなるのではないか」という懸念が消えません。
だからこそ、自分が生きていられる間に、自分の生きた証を残したいと思うようになりました。
具体的には、自分たちの経験から学んだ感情や思想を形にしたいと思うようになりました。

生きるということは、誰かと関わるということだと思います。
身体を持つことはある種の制約であると同時に、心躍る経験でもあります。
であるならば、自分が自分として生きることを通じて、時間や空間を超えて残るものを創りたい。
私が死んでも、時代が変わっても、究極人類が別の種に進化しても、「2000年代の人類はこんな生活を送り、こんなことを想って生きてきたよ」と地球上や宇宙外の生命体に伝えたい。
私はこのような姿勢で、これから自分の作品の創作や他者との関わりを生み出していきたい。
端的に言えば、地球上のすべての存在が幸せに生きていくために、これからの自分の人生を捧げたい。
「虐待から回復するための生き方を伝えたい」というのも、そのための第一歩だと思っています。
そして、ほんの少しでも地球全体が幸せになっていくために、「創る」という方法で私は貢献したいのです。

先週鑑賞した7つの写真展は、それぞれ私に違う感銘や学びを与えてくれました。
私も、私たちが創る作品で誰かを幸せにしたり、人類が進化していく一助となるような作品を作りたいと感じました。
創るということは、私たちにとって最良の他者への愛を伝える方法です。
7つの写真展の作者たちが私に伝えてくれたのは「生きることは、創ること」という真理でした。
7つの写真展のそれぞれの感想は、別の記事で少しずつ書いていけたらと思っています。
それぞれの人が持つ、大きく豊かな愛がこの宇宙を満たしていけるように、私も切磋琢磨して作品を作っていきたいと思っています。