Hazuki Natuno

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蓮は、泥の中で咲かない

蓮は、泥の中で咲かない

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「美しい理想を挙げる人」に絶望している。
もう少し正確に言うなら、あるイベントの運営者に。

そのイベントは2017年から年に1度開催していて、2020年は9月にオンラインにて開催された。
私は2018年は広報のボランティアスタッフとして、2020年はデザインのボランティアスタッフとして関わっていた。

そのイベントの特徴は、ほぼ全ての運営がボランティアで行われていることだ。
このイベント自体は無料のイベントではない。
むしろオンラインイベントとしては高額のチケット代が設定されている。
そうしたチケット販売利益は、登壇者への出演料やボランティアで配置できない人材(動画制作など)への謝礼として支払われている。

だがデザインであれ通訳であれ、運営に必要な仕事はほぼ全て無償のボランティアで賄われている。
ボランティアで行われる業務の内容は多岐にわたる。
プログラムの策定、事前の準備、当日の運営。
全てボランティアだ。
当然、ポジションによっては過負荷のかかる人もいる。
負荷が強過ぎて、ボランティアを途中で辞めたり抜けた人も何人もいた。
私もその一人だ。

そもそも私はデザイナーではない。
写真という仕事柄、イラストレーターなどソフトが使えるけれど、デザインが本業ではない。
私がデザイン周りのボランティアをしていたのは、次々にデザインを担当していた人が抜けて、誰もデザインを担当する人がいなかったからだ。

私は前任のデザインのボランティアの人が抜ける前に、運営陣に何度も「高負荷のかかるポジションのボランティアにはケアをすべきだ」と何度も進言した。
結局その人はデザインのボランティアを途中で抜けた。
彼の抜けた穴を埋めるために私は無償で働いたが、運営から私に対し何かフォローが行われることは最後までなかった。

デザインのボランティアがいなくなって、デザインの業務はプロのデザイナーに外注された。
だが、予算や作業時間に限りがあるので、そのプロのデザイナーが作成しない作業も多々あった。
私はFacebookやSNSに使われる宣伝用画像を自主的に作成した。
動画の英語字幕をつけたり、Twitter広告や投稿用の文章執筆やTwitter広告の出稿、ユーザーに送る文章のライティングも行った。

先週、本業の仕事が忙しくなり、ボランティアと本業の両方に高負荷がかかった。
睡眠薬を飲んでも眠れなくなり、食事が食べられなくなった。
本番の1週間前、運営サイドに「これ以上ボランティアはできない」と伝えた。
できないと伝えた後もデザイン作業の依頼は来た。
「無理だ」と断った。

9月19日はオンラインで行われるイベント本番の初日だった。
少しだけ、と思ってイベントに参加した。
1つ目のプログラムを聴いていたときだった。
ファシリテーターが、参加者にコロナ後に体験した様々なストレスを聴き、参加者は該当する苦しみに手を挙げるというワークだった。
苦しかった。苦痛だった。
ボランティアをしていたときに感じてきた苦痛。
18日に小笠原諸島にコロナ感染者が発生してから感じてきたストレス。
様々な強い感情が一気に出た。
私は苦痛に耐えきれず、Zoomの退出ボタンを押した。

私は別にイベントの運営者を責めたい訳ではない。
ただ、あのイベントのために費やした時間とぼろぼろに消耗した自分に虚しさを感じている。

私のメールボックスには、当日のアーカイブ動画のURLの案内がある。
私は未だにイベント本番の動画を見ていない。観たいと思えない。
イベント開催後、嬉しそうに「良かった!」とSNSに投稿しあう他のボランティアスタッフの反応を無感動に眺めている。
ボランティアをしていたときに感じてきた様々な苦痛と感情の齟齬。
そうしたものばかり思い返される。

美しい理想を挙げる人は、足元で傷つく人を振り返らない。
叡智や慈愛、禅やマインドフルネス。
美しい言葉の下にある、犠牲になった何かはケアされることすらない。

蓮は泥中に咲く。
だが、誰も泥の中は顧みない。
私は泥の中から、咲かなかった蓮を見ている。