最近、創造的に生きるには生きる環境を選ぶことが本当に大事だと思うようになった。
そのために大切なのは環境を形作る「物」と「人」と「場」が大切なのだと実感するようになった。
なぜなら、その三つは環境を作るからだ。
なぜ「物」が大切か。
私は最近、物は「気」というエネルギーの一種だと感じるようになった。
なぜかというと、物は「気」を宿すからだ。
作られることを通じて、物は生まれる。
作った人、作られた過程、運ばれた経緯などを通じて、物は私たちの元に届く。
野菜や米をはじめとした食物。
電化製品をはじめとした様々なプロダクト。
誰かがデザインした服。
広告や本やインターネットを含むデザインや情報。
物が生まれるまでに、その物を生み出すために、様々な人が心を砕き、知恵を絞り、愛を注いで作り上げる。
物は単なる無機物ではない。
ある種の有機的なエネルギーの総合体なのだ。
そうした意味で、物と人の違いはあまりない。
人も肉体という「もの」に宿ったエネルギー体の一種だからだ。
そして、物でも人でもその存在が生まれ、育つために注いだエネルギーの大きさが、器の大きさとなり、また周りにエネルギーを注ぐ。
私たちは物や身体、あるいは精神や魂を通じて、エネルギーを循環させているのだ。
では「場」はどのような存在だろうか。
場もまたエネルギーの器の一種だ。
場はそこに留まる人や存在のエネルギーを受け、変質する。
パワースポットという言葉に象徴されるように、エネルギーが高い場は存在する。
また、ある種の事故や紛争の現場のように、そこにいるだけで気が枯れていく場所を感じる人もいるだろう。
良い場は良いエネルギーを発し、そこに集う人々を良質な気で満たしていく。
また、エネルギーが満ちていたり、美しい気を持つ人は周りの場に良い循環を与えていく。
つまり、「場」はエネルギーが循環させる中継地点のようなもので、時として物や人と変わらないパワーを持つ。
私たち日本人が「八百万の神」と呼ぶ存在の正体は、物や人や場も含め、一つ一つの存在や現象に宿る気のことだ。
おそらく古代の人々は言語化する以前にそのことを理解していたに違いない。
気の流れを含め、存在そのものと交流すること。
それこそがある種の神(Godとはまた違う存在)との交流だと思う。
そして、神と呼んでいいかわからないが、ある種の高次の存在は確かにいると私はしばしば思う。
そして、時としてその高次の存在とのダイレクトなコンタクトは可能で、それこそが私は創造性の根源だと思っている。
芸術家や巫女と呼ばれる人々は不思議な直感で、そのことを理解している。
面白いことに、歴史を見ていると歴史そのものもある種の気の流れだと感じることがしばしある。
同時に気の流れには幾つかのレイヤーがある。
例えば日本の気の流れと世界の気の流れは見ていて若干違う。
場の大きさが違うだけでなく、気の流れは環境に左右されるからだろう。
より大きな視点を持つ人はその流れを読み、場と歴史の流れを動かす。
政治家や起業家、革命家などがそうだ。
より大きな器を持つ人が、より大きな流れを読み、ダイナミックな流れを動かしている。
私は日本は近年、気が痩せ細ってきていると感じている。
その原因はなにかと常々考えてきた。
私なりの結論は「神」(繰り返すが、Godではない)の存在を日本人が敬うことを忘れたせいだと思う。
どんな時代でも、気の流れは乱れる。
だからこそ「祈り」によって、私たちは気の乱れを整えてきた。
自分や家族の幸せを祈るだけでなく、共同体やコミュニティの幸せ、あるいは政敵や祟り神も含め、祈ることで乱れた存在を浄化し、昇華させてきた。
結果、日本は幾度かの時代の危機を乗り越えてきたのは、宗教家や政治家も含めて、民衆が「祈り」の力を無意識に知っていたからだと私は考えている。
そしてその祈りを通じて、私たちは自然の中に存在する大きな高次の存在を、感じてきた。
物や人や場といった、自分の周りの環境に祈ること。
祈ることで、気の流れを整えること。
それこそが、創造性の根源に存在する行為だと思う。
芸術家の役割は、歴史や時代に宿る気の流れを感じ、言語化されない「なにか」を形にすることで、人々に宿る哀しみや苦しみといった陰の気を浄化し、より良い気に昇華することだ。
私は私が創造的であり、また気を宿す一人の存在として、なにかを作ることで、なにかを癒す存在でありたいと考えている。
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