虐待から立ち直ろうと、決めた。
2015年2月10日のことだ。
他の人には何でもない決意かもしれない。
だけど私には38年かかった。
私は長年虐待を受けていた。
乳児の頃に父にお風呂場で女性器を弄られ、2歳の頃男性器を舐めさせられた。
祖母には3歳の頃から身体と言語で暴力を受けていた。
母からはやはり言語で暴力を受けていた。
とても辛かった。誰にも助けを求めることができなかった。
ただ、耐えた。私の感情はどんどん死んでいった。
いまでも私には感情を抑圧する癖がある。
怒り。悲しみ。憎しみ。
そうしたネガティブな感情が沸き上がると私は自動的に押さえ込んでしまう。
感情を抑圧し、記憶をごまかし、私が受けた被害を「なかった」ことにしようとする。
もしもなにも「なかった」ら、私はなにも感じなくてすむはずだったから。
だから、感情を抑圧するようになった。
私は自分の感情や感覚が良くわからない。
昔は愛情も信頼も許しもわからなかった。
いまは、愛情が、信頼が、許しが、どんなものか知っている。
私に親身になり、教えてくれた人たちがいたからだ。
人は愛されることで、愛を学ぶ。
愛を知らなかった私は、家族ではなく他人から愛を学んだ。
私は愛を知らなかったので、何度友人から「自分を大切にしてね」と言われても良くわからなかった。
この年になってようやく、「自分を大切にする」ということがなにかわかってきた。
自分を大切にするということは、自分の中のすべてを尊重することだ。
感情。感覚。価値観。思想。行動。過去。現在。未来。
すべてを大切にする、ということだ。
ならば、私は私の傷を大切にしようと思う。
私の怒りや悲しみを大切にしようと思う。
私は私自身の過去と、現在と、未来を、大切にしようと思う。
なぜなら、私だから。
すべて、私だから。
私は私を愛しているから。
愛は言葉では伝えづらい。
だけど、愛に欠かせないことが3つある。
待つこと、許すこと、信じることだ。
私は私の回復を待とうと思う。
私は私の傷と過去と痛みを許そうと思う。
私は私自身の未来を信じようと思う。
私は私の回復を信じる。
そのために、いまこの痛みと向き合うことをいままでの自分とこれからの自分に約束したい。
虐待にまつわる記憶と感情を思い出すことは私に膨大な苦しみをもたらすだろう。
だけど、それは限りある痛みであると私は知っている。
私は虐待から立ち直る。
今日、改めて決意する。
2015年2月11日記す