Hazuki Natuno

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琥珀の夢

琥珀の夢

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「……ん」

カーテンの隙間から光が溢れ、私を起こした。
二度三度、瞬きして天井を見上げる。
私の部屋のの木目の天井と違う、白い天井。
右に首を回すと同じく白いパソコンと白い引き出し、隣にはミュシャの絵が飾られた白い額縁。

「ああ……」

そうだ、泊まったのだのだった。
ようやく意識が混濁から覚醒を始める。
部屋の持ち主は隣でまだ安らかな寝息を立てている。
こういうときに起こしていいことがあった試しがない。
私は彼を起こさないように、そっと布団を抜け出した。

1K、繁華街から徒歩20分。
ただし環境はとても静かで穏やかだ。
隠れ家のようなこの部屋を私は気に入っている。
たった一つの条件を除いて。

台所に立ち、マグカップに水を注いで喉を潤す。
キッチンには思わず洗いたくなるぐらい洗い物が貯まっているのだけれど、それは許されない。
いや、洗い物に限らず調理はおろかお茶を淹れることすらこの部屋では許されていない。
彼曰く「僕より料理が上手くなったらね」ということだそうだから、その日は永遠に来ないだろう。
こうなると高嶺の花のように棚に仕舞われたジノリやコペンハーゲン、ウェッジウッドたちが恨めしい。
あの素敵なカップたちも彼が目覚めるまで私には触れることが出来ない。
50種…いや100種は超えるかもしれない紅茶の茶葉もやはり私には触ることが許されていない。
この部屋の主人が起きるまで私が口に出来るのは水だけだ。

開けることが禁じられたカーテンの前で座椅子に座り、物思いにふける。
彼より早く起きてしまった朝はいつも暇だ。
かといって夜勤開けの彼を起こすほど無粋ではない。
紅茶を淹れること以上にパソコンを触ることは禁じられているから、私は静かに本を読んで過ごす。
この部屋の主人は読書家の癖に本を持たないから、あくまで読めるのは私の本。
今日鞄に入れてきたのは「デミアン」だから、たぶんあっという間に読み終わってしまうだろう。
そうしたら起こすことは覚悟の上で音楽を聴くことぐらいしかすることがない。
隠者の庵のような部屋の時間はひどくとても…緩やかだ。

本のページを捲る音が白い部屋に響く。
時折、目線をあげて彼の寝顔を確認する。
目覚ましが三つ転がった枕元。
携帯とデジカメの充電器のケーブル。
部屋の主人は起きる気配がない。
本の中ではエヴァ夫人がエミイル・ジンクレエルに説く。

『愛情は願ってはいけません』
『要求してもいけないのですよ。愛情は、それみずから確実なものになるだけの、力をもたなければだめですわ。そうなれば、もうひきつけられるのではなくて、ひきつけるようになりますのよ。ジンクレエル、あなたの愛情は、わたくしにひきつけらえていますね。いつかわたくしをひきつけれうようになれば、そうすれば、わたくしのほうか行きますわ。わたくしは、おくりものなぞする気はありません。自分を手に入れてもらいたいのですわ。』

そうは言われても私の空腹は限界だ。
空腹で彼を惹きつけられるなら、とっくに彼は起きているはずだけど。
本に栞を挟むと、布団ににじり寄って寝顔をしげしげ観察すると額に口づけた。

「おはよう」

もそもそと彼は二三度、瞬きする。
まだ夢の中みたいだ。
ちょん、と鼻の頭に口づけるともう一度囁く。

「お腹、減ったんだけど」

眠り姫ならぬ眠り王子を起こすにはいささか色気の足りない台詞だが致し方ない。
真実なのだもの。

「紅茶、淹れていい?」
「駄目」

ものすごくはっきりした返答。
このことについてこの部屋の主の主義は変わる気配がない。

「喉、乾いたの」
「わかったから、もうちょっと待って」

微睡みから現実に覚醒する様子を観察しながら大人しく待つ。
いつも思うのだけど、上げ膳据え膳って結構苦痛だ。
楽なのは確かだけど、好きに飲めて、好きに片付けられるほうがいいなぁと思う。
男性とかどうなのかしら。
感想を聴いてみたいものだけれど。

そんな人の物思いは知らず、起きた主は今朝の紅茶を選んでいる。
この人の紅茶好きは私の理解の範疇を超えているから、いつもなにを飲ませてくれているのかさっぱりわからない。
なにせ茶葉の種類ではなく農園単位で季節ごとの味を飲み比べ出来る人なのだ。
しかも本人の様子を観察するに、選ぶ独自の基準があるらしい。
だから私が勝手に飲もうとすると猛烈に怒るのだ。
私は彼を紅茶マニアと呼ぶべきか紅茶オタクと呼ぶべきかいつも悩む。

「はい」

嬉々として茶葉を選び終わるとカップが二つ出てくる。
贔屓にしているお店から試飲用の茶葉を貰ったので淹れたのだ、という。
水色は若草に近い色からダージリンとわかる。
もう一つも香りからダージリンとわかるけど、もう少し濃い。
鼻が悪くて猫舌の私にはほとんど飲み比べてもわからないのだけど、それでも丁寧に淹れられてウェッジウッドに映える紅茶の色は好きだ。
ダージリンの黄金のような若草色も、アッサムの琥珀色の水色も。

大人しく淹れられた紅茶を飲んでいると、あっさりした丼ものが出てくる。
秋刀魚の缶詰と卵で手早く作られた朝食は、手際の良さにおいて私はやはり叶わない。
感謝と悔しさを微妙に味わいながら駄目元で今朝も言ってみる。

「たまには私も作りたいんだけど」
「僕より上手く作れるならね」

紅茶一つ淹れることが叶わない私が、料理で勝てるはずがない。
私は今朝もむくれながら朝食を食べ終わった。

「間に合うの?」
「うん」

彼と入れ違いに私は病院に向かう。
通院するにはこの部屋からのほうが近くて有り難い。
玄関で靴を履き終わると、軽く口づけて私たちは別れた。
彼の日常と、私の日常へ。

とても些細な行き違いで私たちは別れて、あの紅茶を飲むことはもうない。
ただ、私には紅茶を愛する習慣だけが残された。
仕事を終えて帰宅すると、その日そのときの気分に合わせて紅茶を淹れ、読書する。
だけど何度淹れても彼ほど美味く淹れることは出来ないままだ。
それでも琥珀色の湯気に眼鏡を曇らせるたび、あの部屋の穏やかな時間を思い出す。

あの穏やかな、琥珀色の夢を。

2008年1月16日記す

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