Hazuki Natuno

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流れる音楽のように

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文章を、特に「随想」を書くときに一つだけ心がけていることがある。

流れる音楽のような文章を。
それが僕が随想に望む全てだ。

文章の書き方には色々あると思う。
文体、表現、単語、言い回し。
一つのテーマが様々な技術の選択で硬くも柔らかくもなる。
一つの文体、一つの表現方法を突き詰めるのも一つの生き方だし、
テーマにあわせて表現そのものを変えるのも、また一つの有り様だ。
「随想」はその意味でBGMのようにさりげなく心に流れ、残らず、
それでいていつか思い出せるようなものが書けたらいいとそう思って書いている。

だから僕にしては珍しく随想はほとんど推敲をしない。
基本、日記を書くときは下書き、推敲、誤字脱字の修正を含め最低五度は改訂して発表しているのだけど、どうしてだろう。
随想に関してはなにも加えず、減らすこともまたない。
心のままに書き、指の動くままにキーボードに向かう。
ある意味、僕が一番僕らしく書いている時間が随想を書いているときであるかもしれない。
その意味で僕は僕のために書いているのであり、時に読者をおいてけぼりにすることを承知のうえで
筆を進めていると自覚しているので意地悪で未熟な書き手だなぁと苦笑してもいる。

人の心は複雑で素直ではない。
僕に書けるのは僕の心、僕の言葉、僕の想いだけで他人から聴いた話を含め、人のことは書くべきではないと心がけている。
それは秘密を聴かされた人間の義務でもあると思うからだ。
その一方でなんでも語らずにはいられない人間という虚像としての僕と
語ることのない内面を抱えるという真実の人間としての自分が葛藤する。
それは誰にでもある苦しみで、たぶん大したことではないんだろう。
僕が好きな人たちが、いつもとても苦しんでいることと、それを囁いてくれることと、
ただ一人、抱え込んで生きていることと同じように。

でも知ってしまった僕に出来ることは一緒に苦しむことだけだから、僕はただ聴き、見つめ、傍にいることしか出来ない。
傍にいることすら出来ないことのほうが更に多い。
そんなとき僕はキーボードに向かう。
紙でも携帯の画面でも構わない。
そのとき僕が書くことが出来る道具に、僕の心をぶちまける。
それが随想の正体であふれるように言葉は出てきて、止まることがない。

書いているときだけ、自由でいられる。
書いているときだけ、解放される。
まるで音楽を聴いているように。

僕の心にある小説が、詩が、物語が、言葉たちがいつも解放されるときを待っている。
歩きながら、踊りながら、食べながら、働きながらいつも考えている。
どう書くか、いつ書くか、どのように書くか、どう発表するか。

僕の書きたいテーマは誰かに伝わるだろうか。
僕の伝えたい言葉は誰かに必要とされるだろうか。
それは密やかな恐怖で、多大な喜びなのだ。

誰の心にある、普遍的な傷み。
極当たり前の秘密。
極当たり前の救い。

そんなものを救いあげ、解放したい。
いま僕の心に流れる、この音楽のように。

BGM:「You and Me」 FreeTEMPO(「SOUNDS」)

2008年1月13日記す